偉人の軌跡をめぐる旅

    姫路城を西の丸から望む。大天守が最も美しく見えると評価されている

    地元では"総社さん"と呼ばれる播磨国総社。播磨地方の総鎮守であり、姫路城の鎮護の神社だ

    東播磨総神殿と西播磨総神殿。"総社を参る"とは本来この神殿の参拝を指す

    拝殿の隣にある官兵衛神社。黒田家ゆかりの珪化木をご神体としてまつる

    偉人の軌跡をめぐる旅

    希代の名軍師・黒田官兵衛を訪ねて
    姫路[ 兵庫県 ]

    • 黒田官兵衛
    • 姫路城
    • 播磨国総社
    • 廣峯神社
    更新

    織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国三英傑に仕えた
    黒田官兵衛は、播磨国の姫路で生まれ育った。
    軍師としての才能を発揮し、秀吉の時代には天下統一にも貢献した。
    筑前国の大名にまで上り詰めた軍師・官兵衛の姫路での足跡を追う。

    天下人の下で知力を発揮し
    縦横無尽の活躍を見せた軍師

    姫路城を西の丸から望む。大天守が最も美しく見えると評価されている

    天高く、白く輝く大天守を備えた姫路城は、白鷺(しらさぎ)城の名でも知られる。白鷺が舞い立つ姿に見立てた別名だ。姫路城は大天守をはじめとする国宝8棟、櫓や門といった国指定重要文化財74棟の建造物で構成される。通称・黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと、黒田孝高(くろだよしたか)は1546年、姫路で生まれた。当時の姫路城は現在よりも簡素だった。

    左上/表玄関に当たる菱の門。片側だけ石垣にのる珍しい安土桃山様式の城門だ
    右上/本丸への最終関門となる"にの門"。通路や門内で攻め手を多彩に攻撃できる櫓門だ
    左下/十字紋が彫られた鬼瓦には、キリシタン大名だった官兵衛と関連付ける説がある
    右下/大手門から大天守正面を見上げる。石垣と櫓がダイナミックに幾層にも連なる

    1567年ごろ、官兵衛は家督を継ぎ、主君である小寺政職(こでらまさもと)の姪の娘を正室に迎え、姫路城の城代となる。城代とは城主の留守を担う役職だ。1570年代、共に勢力を拡大する尾張(おわり)国(現愛知県)の織田信長(おだのぶなが)と、安芸(あき)国(現広島県)の毛利輝元(もうりてるもと)が覇権を争い、地理的に両国に挟まれた播磨(はりま)国は苦境に立たされた。官兵衛は、さらに勢いづくと予測した織田側につくべきだと小寺に進言したという。若くしてすでに軍師の素質を持っていたとうかがえる。
    姫路城の大天守内には、外敵からの攻撃に備えた設備の一部が残る。石打棚(いしうちだな)は、高い位置の窓の下にある棚状の台だ。高い台から外敵を監視・射撃するため設えられた。武者隠しは、大天守3階の四隅にある小さな隠し部屋だ。兵が身を潜め、侵入した外敵を迎え撃つ。廊下には武器をしまう棚が張り巡らされており、当時の戦の備えがうかがえる。

    左上/6階建ての大天守を西大柱と東大柱の2本が貫く。長さは24.6mもある
    右上/石打棚と呼ばれる構造。高い位置にある窓から城外の敵を攻撃する
    左下/武者隠し。隠れて身を潜め、城内に攻め入った敵を迎え撃つ
    右下/城内の壁には槍や鉄砲を保管する武具掛けが多く見られる

    官兵衛は、織田信長の家臣だった羽柴秀吉(はしばひでよし)(のちの豊臣秀吉(とよとみひでよし))の配下に入った。播磨国に進出した秀吉の軍師として、天才的な手腕を発揮していく。
    官兵衛は、戦わずして勝つことを重視した。姫路城を毛利勢征伐の最適な拠点ととらえ、秀吉に譲渡した。三木(みき)合戦では、難攻不落とされた三木城の兵糧攻めを秀吉に提案し、開城を成功させた。沼地に建つ備中高松城に籠城した清水宗治(しみずむねはる)の攻略には、水攻めの戦略を立案した。城の周囲に堤防を築き、近くの川を決壊させて堤防内に水を流し込み、城を浸水させる奇策だ。水攻めは功を奏し、官兵衛は秀吉の優位な和睦交渉に貢献した。

    秀吉が姫路城にいたのは1580年から大阪城を築くまでの約3年だった。その間、姫路城に当時としては珍しい三重の天守を築いた。入城口近くに今も残る野面積(のづらづ)みの石垣の一部は、官兵衛による普請と伝わる。
    1600年の関ケ原の戦いの後、姫路城の城主となった池田輝政(てるまさ)は大改修を行い、現在の5重地上6階地下1階の大天守を完成させた。官兵衛が潔く明け渡した姫路城は、時の有力者によって手を加えられ、巨大かつ壮麗な唯一無二の城へと発展していった。

    黒田官兵衛ゆかりの石垣。秀吉に命じられ、野面積みの石垣を手がけたと伝わる
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    崇敬する神に祈り
    軍旗に勝利の願いを込める

    姫路城の南西には播磨国総社(はりまのくにそうしゃ) 射楯兵主(いたてひょうず)神社がある。播磨国内16郡の大小明神174座の神々をまつる播磨国総社だ。縁結びの神様である兵主大神と、全国に植樹して緑豊かな国にした神様である射楯大神をまつり、1400年以上の歴史を持つ。
    かつてこの地には、今の県庁に当たる播磨国国衙(こくが)が置かれていた。県知事に当たる国司(こくし)には、毎日、朝と夕に領内のすべての神社に播磨国の平穏無事を祈る役目があった。つまり、領内である神戸市西区あたりから赤穂(あこう)あたりまでの播磨一円の神社に参らなければならない。実際には不可能だ。そこで神様を1カ所に集め、播磨国総社としたと伝わる。本殿の北側には、東の8つの郡をまつる東播磨総神殿、西の8郡をまつる西播磨総神殿がある。

    地元では"総社さん"と呼ばれる播磨国総社。播磨地方の総鎮守であり、姫路城の鎮護の神社だ
    左/東播磨総神殿と西播磨総神殿。"総社を参る"とは本来この神殿の参拝を指す
    右/小規模な神社も境内に並ぶ。姫路城天守閣鎮座の長壁神社のご分霊を境内にまつる

    播磨国総社は、播磨の総鎮守と姫路城の鎮護を担い、歴代の姫路城の城主から崇敬を集めた。官兵衛の父である職隆(もとたか)は拝殿と神門を修築した。秀吉から黒田家の旗幟(きし)を作れとの命を受けた官兵衛は、職隆と共に7日間参詣し、軍旗に戦勝の祈祷を受けた。さらに官兵衛は、総社に禁止事項や布告を記した掲示板、制札を与えて保護したと伝わる。

    播磨国総社には、一ツ山大祭と三ツ山大祭と呼ばれる特別な行事がある。日本全国の八百万(やおよろず)の神を迎え、八難苦厄(はちなんくやく)をはらい、国の平和と人の幸せを祈る祭りだ。一ツ山大祭は60年に一度行われる。次回は2047年だ。三ツ山大祭は20年に一度行われ、次回は2033年となる。
    いずれの祭りでも、神門前に作った直径10m、高さ18mの巨大な置山(おきやま)に全国の神様を招き入れ、本殿の神様がもてなす。多くの祭りが時代と共に置山から曳山、神輿や屋台へと変化する中、原初的な置山の形式が守られる神事は希少である。

    上/播磨国総社の総社御門。高さ16m、幅26mもあり、楼門としては国内最大級だ
    下/総社御門2階に展示される置山10分の1ひな型。国指定重要有形民俗文化財だ

    黒田家のルーツを探ると、廣峯(ひろみね)神社に行き当たる。733年に吉備真備(きびのまきび)によって創建された古社だ。標高260mの広峰山の山頂にあり、神聖な霊域へは石段を上って進む。
    かつて神社の周囲には、祈祷や参拝を世話する御師(おし)が多く住んでいた。御師の家は御師屋敷と呼ばれ、土塀跡や石垣は現在も神社近くに残る。流浪してきた官兵衛の祖父である重隆(しげたか)は生活に困窮し、御師屋敷に寄宿したと伝わる。

    左/廣峯神社は姫路市街を見下ろす広峰山の山頂にある
    右/神社近くに見られる御師屋敷の土塀跡

    廣峯神社は、陰陽道に基づく独自の参拝方法でも知られる。拝殿で日ごろの感謝の気持ちを示した後、本殿の裏へと進む。一白水星(いっぱくすいせい)から九紫火星(きゅうしかせい)の守護神が鎮まる本殿の裏では、自分の運命星の穴に個人的な願い事を3回ささやく。九星詣(きゅうせいまい)りと呼ばれる参拝方法である。願いが叶うパワースポットとして遠方から訪れる人も多い。

    上/石段を上ると見えてくる拝殿は国指定重要文化財だ。二礼二拍手一礼で参拝する
    下左/本殿の裏には9つの穴がある。一白水星から九紫火星までの守護神がまつられる
    下右/個人的な願い事を穴にささやいて祈願する
    敷地内のメグスリノキ。目薬で財を成した黒田家にちなんで植えられた

    困窮した重隆は御師たちと相談し、黒田家秘伝の目薬を作った。御師たちが目薬を祈祷札と共に配り始めると、たちまち効能が評判となる。重隆は目薬で財を成した。廣峯神社の敷地内にもメグスリノキがあり、黒田家のルーツに思いを馳せる人は少なくないという。

    2018年には、黒田官兵衛ゆかりの珪化木(けいかぼく)の一つが廣峯神社にご神体として譲渡された。1783年に職隆の墓所から福岡市内の寺に移管されていた古木だ。現在、廣峯神社の境内に造営された官兵衛神社にまつられる。知将としての官兵衛を崇敬する参拝者が遠方からも多く訪れている。

    拝殿の隣にある官兵衛神社。黒田家ゆかりの珪化木をご神体としてまつる

    官兵衛は信仰あつく、軍旗に勝利の願いを込めて、ゆかりの神社をいくつも参拝した。1586年に征伐の先鋒として九州入りした官兵衛は、九州平定を成し遂げる活躍を見せる。関ケ原の戦いでは徳川家康の東軍につき服従した。1604年に59歳で生涯を閉じるまで、主君に誠実に仕える知将の姿勢を貫いた。

    ちょっと寄り道

    播磨名物の穴子を多彩な料理で堪能

    播磨灘沿岸地域で古くから親しまれる穴子料理の専門店。ランチで人気なのは、穴子を使った種類豊富な料理を少しずつ味わえる穴子づくし御膳。定番の天ぷら、刺身、焼き穴子、蒸し穴子、穴子飯の他、だし巻きや酢の物、山椒煮といった専門店ならではの多彩な穴子料理を堪能できる。

    ■あなご料理専門店 (ひいらぎ) 本店
    https://anago-hiiragi.com/

    穴子づくし御膳 4,400円

    動画を見る

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