
日本の常識は世界の常識にあらず
意外と知らない世界の文化
メキシコの死者の日は
生者と死者をつなぐ家族の儀式

- 国名
- メキシコ合衆国
- 面積
- 約196万km2
- 人口
- 約1億2601万人(2020年 メキシコ国立統計地理情報院)
- 首都
- メキシコシティ
- 言語
- スペイン語
- メキシコ
- ユネスコ無形文化遺産
- 死者の日
- 仕事より家族
- 他人への声がけ
この記事のポイント
- 自然豊かな観光資源を有し、古代文明が栄えた歴史ある地としても知られるメキシコ
- 「死者の日」は、故人を忘れないように生者と死者を結びつける重要な祝祭
- イエス、ノーをはっきり主張する国民性。曖昧さや空気を読む行動は理解されにくい
メキシコは、米国と中央アメリカの間に位置し、カリブ海に臨む「カンクンビーチ」や神秘の泉「グランセノーテ」をはじめとする自然豊かな観光資源を有する。さらにマヤ、アステカなどの古代文明が栄えた歴史ある地としても知られる。
近年、特に注目を集めているのが、ユネスコ無形文化遺産に登録された「死者の日」だ。死者の日とは、キリスト教のカトリックの万聖節(11月1日)と万霊節(11月2日)を中心に行われる伝統行事だ。正式名称は「死者にささげる先住民の祭礼」といい、家族全員で故人の霊を迎え、共に過ごす重要な祝祭とされる。
日本のお盆に近い行事で、死者の日は社会全体が明るくにぎやかなムードに包まれる。地域によっては祝祭を盛り上げるグッズが販売され、大々的なパレードが催されるほどだ。メキシコでは死を世の延長と考え、その死生観によると、死は必ずしもネガティブなものではないという。「死=怖いもの、悲しいもの、永遠の別れ」とは捉えない。

死者の日には、帰ってきた死者の魂を迎えるろうそくで、墓地全体が幻想的なオレンジ色に染まる
死者の日が近づくと、メキシコ人は家族で墓地を清掃し、墓の周りにマリーゴールドの花を飾る。死者の魂は花の香りをたどって帰ってくると考えられ、墓地から住居まで花びらを敷く場合もある。各家庭には祭壇が用意され、ろうそくと故人の写真が飾られる。その周りには、トルティーヤやタマル(トウモロコシ粉の団子)、テキーラ、コーラなど、故人が好きだった食べ物や飲み物を供えるのが習わしだ。
万聖節の前日にあたる10月31日の夕方にはろうそくが灯され、墓地全体がオレンジ色の幻想的な雰囲気に彩られる。地域の家族はそれぞれの墓に集い、回帰する故人と語ったり笑ったり涙を流したりと、思い思いの時間を過ごす。
死者の日の本質は、生者と死者を結びつける家族の催しである。メキシコ人は、人が本当に死ぬのはその人が忘れ去られたときと考える。家族が故人を忘れず、ずっと離れないための儀式といえる。
変化を続ける死者の日
メキシコに限らず、スペイン語圏の他の国々でも死者の日の催しは開かれる。だが、にぎやかな祝祭として知られ、観光客が殺到するのはメキシコくらいだろう。
実は、メキシコの今日における死者の日は、16世紀からの植民地時代に醸成されたメキシコ古代文明とヨーロッパからもたらされたカトリックのルーツの混淆、近代化の影響、メキシコ人の国民性により"創られた伝統"だ。
もともと死者の日は、カトリック教会の管理の下でしめやかに行われる催しだった。18~19世紀に教会の権力が弱まり、死者の日が世俗化。飲んで食べて歌って踊るという、祭り好きなメキシコ人らしい祝祭に変わっていった。
ところが20世紀にはやり出した米国のハロウィーン人気に押され、死者の日の存在は希薄化する。伝統文化の危機を危ぶむ行政は、まず2003年に死者の日のユネスコ無形文化遺産への登録に動いた。次いで行ったのが、死者の日のイベント化だ。きっかけは2015年に公開された映画「007 スペクター」だ。この作品のオープニングで、死者に仮装した人々と巨大な骸骨人形がメキシコシティの目抜き通りを練り歩くシーンが登場する。実はこのシーンは、映画のために作られた完全なフィクションだ。実際には、そのようなイベントは行われないが、行政がそこからヒントを得て、翌年から同様のパレードをスタートさせた。17年にヒットした死者の日とメキシコ人の家族愛を描いた映画「リメンバー・ミー」も、死者の日の認知を高める後押しになった。
他国が作った映画から自分たちの文化の魅力を再認識し、アップデートする。多様な価値観を受け入れる柔軟性や懐の深さは、メキシコの多民族性・多文化性の象徴ともいえる。
気持ちや感情をストレートに表す
メキシコ人から見た日本人の印象は、基本的にポジティブだ。メキシコと日本は、外交上の関係を歴史的に遡っても仲が良い。性格は180度違うが、違いが大きいからこそお互いの国民性を認めやすいのかもしれない。
分かりやすいのが、時間に対する感覚だ。時間の概念に厳しい日本人とは対極に、メキシコ人は何食わぬ顔で約束の時間に遅れる。数分程度の遅刻は遅れのうちに入らない。極端に言うと、その日のうちに待ち合わせ場所に来れば良い。公共交通機関が遅れても「普段通りだし気にしない」とおおらかなスタンスで受け入れる。
真逆だからこそメキシコ人から理解しにくいとされるのが、日本人特有の曖昧さと空気を読む感覚である。はっきりと意見や気持ちを主張するメキシコ人からは、日本人が何を考えているのか分かりにくい。
同時に、日本人は家庭内でハグのような肉体的な接触が少ないことから、家族関係が希薄とも思われている。気持ちをオープンにしない日本人を見ると「なんでそこでハグしないの?」「感情を表現しないの?」と感じるようだ。
ちょっとした声がけの文化
コミュニケーションの取り方も、メキシコ人と日本人とでは大きく異なる。メキシコでは、助け合いは生活の一部だ。混雑する路線バスの中では、後ろの乗客から運賃を手渡しリレーでバスの運転手に届けたり、おつりを返したりする。乗客同士が連携するやり取りは日常的に行われる。
日本人は知らない人との関わりを避ける傾向が強いが、メキシコ人は他人に対してもちょっとした声がけをよく行う。レストランで食事をした帰り際には、隣のテーブルで食事をする赤の他人に「ゆっくりお召し上がりくださいね」「楽しんでね」とひと声かけて店を出る。
日本人にはノンバーバル(言葉を使わず行う)コミュニケーションを強制する空気や、「急に知らない人に話しかけるのは失礼」という不文律がある。その壁を一歩乗り越え、メキシコ人のような人を思いやる"ちょっとした"コミュニケーションが当たり前になれば、もっと親しみある社会になるのではないだろうか。
オンとオフのメリハリ
メキシコ人の仕事観にも触れていこう。
メキシコ人は基本的に真面目でよく働く。決められたルールやマナーも律義に守る。ルール違反に対しても厳しい意識を持つ。この辺は日本人と近い感覚だが、メキシコ人は仕事より家族との時間を大切にする傾向が強い。公私の線引きも明確で、プライベートの充実が仕事のモチベーションを左右するといっても過言ではない。メキシコで事業を展開するとある日系企業が、町や教会の祭りの日を会社カレンダーの法定休日に定めたところ、従業員のモチベーションと労働効率が上がり、業績が向上した事例もある。
メキシコ人は自分の時間を大切にし、「それは嫌」「これは無理」とはっきり主張する。仕事においても同じだ。日本人は職場でなかなかノーを言えず、仕事を抱えがちだ。明らかに無理でも、社交辞令やその場しのぎでできると答える人も少なくない。
だが、イエス、ノーがハッキリしたメキシコ人には、言葉の裏にある機微は伝わらない。「できる」という言葉はストレートに受け取る。言いにくくてもきちんと言葉にして、はっきり伝えたい。
仕事の際にメキシコ人が「できる」と言った場合は、いつまでに何ができるかを聞こう。メキシコ人に限った話ではないが、個々の仕事のペースが日本人と同じとは限らない。お互いが気持ち良く仕事をするためにも、擦り合わせておくと安心だ。
待つだけでは何も始まらない

知らない人同士でもフレンドリーに挨拶を交わすのがメキシコ流。仲良くなるには、思い切って自分から話しかけてみよう
メキシコ人と仲良くなるには、積極的に声をかけると良い。難しい会話は不要だ。「hola(オラ/こんにちは)」と挨拶するだけで、交流を持つきっかけになる。歩み寄った分だけ受け止めてくれる心の広さも、メキシコ人の魅力だ。
半面、黙って相手から声をかけられるのを待つだけでは何も始まらない。フレンドリーな関係を築きたいなら、「Me llamo +自分の名前○○(メ ジャモ 〇〇/私の名前は○○です)」「Puedo hablar un poquito(プエド アブラール ウン ポキート/少しだけ話せます)」といった簡単なフレーズをいくつか覚えておくと、距離を縮めやすくなるだろう。表情で喜怒哀楽を表しつつ、小さなやり取りを重ねれば、良好な関係の構築につながるはずだ。
小林 貴徳
専修大学国際コミュニケーション学部 准教授